こんな方におすすめ
- その場に合わせて、つい嘘をついてしまう自分に嫌気がさす
- 嘘をついてしまう自分はダメでだと、過剰に自己卑下をする
- 過剰に自分を取り繕って、人と接してしまい、あとからヘトヘトになる
あなたは、人に好かれたい病がありませんか?
- 自分のことをよく思ってもらいたい
- 険悪な中になって、気まずくなりたくない
そうした心理は、誰にでもあるものですが、
それによって、
- 過剰に気を使って、自分でぎこちなさを感じている
- 会話の中でその人がこう言うとよろこぶだろうな、ということを計算して無理に会話に嘘を交えたり、
- 古くから知っている相手にさえ、本音を言えない
というのであれば、
それは、“人に好かれたい病”、と言えるものです。
注)医学的には、そうした病名はありません
人に好かれたい病とは?
人に好かれたい病の一番の問題点
私たちは、接する人によって口調を変えたり、会話の内容をその場に合わせて調整しているものです。
赤ん坊や子供に話しかける時には、仕事場で上司に進捗を報告するようには語りかけません。
「今、〜〜〜と〜〜〜〜をつかった柔らかい離乳食を作成中です。7:00を目安に出来上がり次第、お届けします」と明瞭でハキハキとしたいいかがではなく、
「〇〇ちゃ〜ん、ご飯できたら、食べようか〜」とゆっくりと優しい口調で語りかけるものです。
趣味の仲間や友人との会話では、
「〇〇さん、今日のスティックの動き、すごく冴えてたね」などのように、フランクに語りかけ、その趣味に関する話や、友人との共通点、その人にだけ言える悩み などを話したりします。
私たちは、その場、その場で、その人に合わせた会話をしているようなところがあります。
内容や口調を調整するのです。
私たち人は、その場の空気や気持ちを読み取り、都合のいい会話を組み立てるということは、ごく自然な振る舞い方として行なっています。
そうした、振る舞い方をする心理的は、私たちの脳にあるミラーニューロンによる周りの人に合わせる能力や共感力によるところが大きいですが、
しかしもし、その会話の中に“嘘で取り繕う”があったり、その場の雰囲気にあわせるために、自分以外の誰かについて事実とは違うことを言ってしまう。たとしたら・・・どういうことになるでしょうか?
その場は、なんとかうまくいっても、そのあと
あなた自身の心の中に残る感覚
噂話をされた誰かがそれを知ったとき、
それは、あなたにとってはマイナス面しかありません。
その場に合わせることと、嘘の持つ善悪
実は亡くなった母が、たびたびそうしたことをしていたのです。
近所の奥さんだったかと玄関前で会話をしていて、「うちの娘は、〜〜だって言うのよ」と言う声は、玄関口の方に窓のある二階にいる私にも聞こえてきました。
咄嗟に、「そんなこと言っていないのに」という不快感が湧き起こり、母に文句を言ったかど言うかは覚えがありませんが、本人は、それが悪いことだとは思っていない節がありました。
どんなことを言っていたのか内容的なことははっきりとは覚えていませんか、悪口や批判的なないようではなかったとはぼんやりとは覚えていて、ですが、「自分が言っていないこと」、「自分はそうではないこと(事実とは違うこと)」を言われるのは、それを言われていることは、本人にとってはとても不快なものだということです。
それは、人との信頼関係の崩壊でもあります。
本人はその場の相手に合わせただけかもしれませんが、気にするべきものは、目の前の相手の反応ではなく噂話をされた相手であって、話をした自分自身の反応です。嘘を言うことでしか人と接することができないというのは、心理的な緊張や不安を抱えていたり、自己卑下や自己憐憫のセルフイメージを持っていることさえあります。それを隠そうとして、その場を取り繕う嘘を言ってしまう。
そして、本人はそれが、嘘であるという自覚さえないことすらあります。
「息を吸うように、嘘を吐く」
というように、
その場に合わせただけ、事実だとか本当だとかは関係なく、たいしたことだとは思っていないのです。
『烏に単はにあわない』という小説はコミカライズされて、同じ作家の『烏は主を選ばない』という前段のシリーズと合わせてアニメ化もされています。平安時代の宮中と貴族の覇権争いを思わせる世界観のなかで、山内という人化する烏のすむ山の中で次期金烏(いわば帝)の妃選びを中心に描かれた物語です。
東家、西家、南家、北家の上級貴族のそれぞれの家からお妃候補として姫が後宮に登殿する。それぞれの殿舎を与えられて、次期金烏である若宮殿下にえらばえるべく競い合いが始まる。
四家の一つ東家から出された“あせび”は、愚かさや何も知らないことの仮面を被りながら周りにいる者を翻弄し、幼い頃に見た若宮殿下に選ばれるために、他者を陥れるために、まるで息を吸うように嘘をついている。そのことで死人が出ても本人はそれが悪だとは気づいていません。読者評の中にはサイコパスだというものもあったぐらいです。
私は漫画とアニメで見ましたが、かなりエグい。最後に若宮殿下がそれを暴くのと幼馴染だった南家の墨子を選んだところにスーッとするくらい。
この“あせび”姫のように
つまり嘘を重ねるうちに、そうしたことをしているうちに、嘘を嘘で取り繕うようになり、なにが真実か、何が本当か、自分にとっての真実を、自分のいいように解釈するようになる。自分の中で自分という存在がわからなくなるようにもなってきます。
それは、嘘がまこととなり、まことが何なのかが、わからなくなると言うことでもあります。
私たちは、自分の本心でさえ、自分が何を感じているのかさえ、本気で向き合っていなければ、実感することが難しい。それなのに、嘘を言い続けていけば、その本心でさえ、その“嘘”のものとなるのです。その場だけのものではなくなるのです。
マザーテレサの言葉の数ある言葉の中に、
- 思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから
- 言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから
- 行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから
- 習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから
- 性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから
という一連の言葉あります。
この言葉はつまり、自分が何を思っているのかの思考の表れです。言葉は、口に出た時から行動を引き起こすものです。その行動が続けば習慣となり、その習慣が繰り返されることで、その人自身の人格を生み、人格によって運命が左右される
という、心理学や哲学、人生論にも通じる考え方です。
あなたが今その場しのぎで、嘘をついてしまっていることに違和感を感じているのなら、そうした自分を変えていく必要があります。
フィクションという嘘の世界
もちろん、この世は、本当のことだけで成り立っているわけではありません。
ドラマの世界でも漫画でも映画でも、言うなればフィクション:想像によってつ切り上げられた事柄、虚構。作者の想像力によって作り出された物語。創作。作り話
である嘘の世界です。
事実の中に、脚色や演出を加えて、物語として「そうである」本当のように見せている世界です。
私たちもまた、置かれた立場、仕事、によって「なりきる」ことで、つまり嘘の自分になることで、その場に相応しい者をとして振る舞うことをしています。
- 教師なら教師のように
- 営業マンなら営業マンのように
- 家庭の主婦なら家庭の主婦のように
- デザイナーならデザイナーのように
などの、ある一定の「こうあるべき姿」を、自分あるいは属性の求める規範の中での振る舞い方をその場に合わせて決めています。
それはある意味、偽りの姿とも言えます
NLP心理学のステートコントロールをするメソッドの一つにモデリングがありますが、これはある特定の自分が理想としている人の振る舞いを観察して、真似ることでその人のような振る舞いをすることを可能にするものです。
あるテレビ番組で、冨永愛さんが「自分は強い人間ではなく、強い人間のふりをしていた。そうでなければ飛行機に乗ることができず、飛行機に乗って仕舞えばニューヨークやパリに行かざるおえず、あの刺さるような視線の中で(ファッションショーの舞台の上を)歩かなければならない。そうしているうちに強い自分になった」という発言をしていました。
そのように振る舞う。
それは今は、俳優としても活動している冨永さんの原点でもあるように感じました。
思えば私自身、化粧品会社に勤めていた時は「美容部員は女優よ」と教えられたものです。つまり、そのお客様に合わせて話し方や振る舞い方を変えていく臨機応変さや対応力が必要だということで、NLPを学びたてのセミナーサポートの頃やコーチングの時には自然と、その時のステートを使っていました。
モデリングする、つまり、模倣する
というプロセスもまた、ある意味、自分の中に嘘を使って自分を演じるわけです。
しかし、嘘の自分と本当の自分との違いはなんでしょうか?。
実のところ、嘘の自分も本当の自分も、自分には変わりないのです。
私たちは、自分のことであっても自分のことはよく分かってはいません。
そして自分という存在は、生まれついた気質はあってもその気質をどのように使うかは、あなた次第で、どの自分で生きるのかはあなたが選択するしかありません。
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嘘をついてしまうことの背景にある、マイナスな心理状態
重要なことは、
あなたがなにか嘘を言っている嘘の振る舞いをしている、そのことを自分が認識していて、その自分に対して嫌悪感を持っていることです。
あるいは、その場の人にあわせて、本心からではない嘘をついている自分を卑下していることです。
つまり、その嘘の根底にはなんらかの心理状態があり、そしてその心理状態を表現するために嘘をつかっているかもしれません。
- 自分の本心を表してはいけない(人に侮られるから)
- 自分の本心を表してはいけない(表すほどの存在ではないから)
- 人に好かれることを言わなければいけない(本音で話しても好かれる存在ではないから)
- 人に合わせなければいけない(そうしないと、人に好かれないから)
などの、なんらかの制限的なビリーフが、あなたをそうさせているからかもしれません。
つまり、人との対話の時に、常に緊張感をもちストレスを抱えているという状態であるとも言えます。
そして次第に、
嘘をついている自分に対して、もう一人の自分が批評し、
「こんな自分ではダメだ」
「何をやっているんだ、お前は」
「こんなことを言っている自分は最低だ」
などなど
自分で自分を痛めつける。それも心の声で。
それによってますます、“嘘をついているダメな自分”としてのセルフイメージを強化することになるのです。
こうした、
自分自身に対する嫌悪感や自己卑下は、自分自身を自由に表現することができなくなり、次第にそれが習慣として身につき、それが当然の気質となっていく。
そうした自分がつく嘘に対して、どのように思うかは、信じている価値観も影響しています
“嘘つきは泥棒の始まり”
- 嘘を平気でつく人は、盗みも平気になる
- 嘘をつくようになると、次には盗みを働くようになる
という意味を持つ慣用句です
“噓も方便”
・仏が衆生済度にあたっては、方便(手段)として嘘をつくこともある、ということから、大きな善行の前では、偽りも認められるということ。
・それよりも軽い意味で、物事を円滑に進めるには多少の嘘も許される
<参考>ウィクショナリー日本語版:
済度とは:
①衆生(しゆじよう)を苦海から救い,彼岸へ導くこと。② 困ったり苦しんでいる境遇から助け出すこと。
“嘘つきは泥棒の始まり”も、“嘘も方便”も嘘に対しての考え方のひとつで、嘘を否定するか肯定するかの違いですが、
あなたが嘘をついてしまう時、あるいは、あなたの周りの誰かが嘘を言っている時、その是非の判断は、あなたの中にある
- 嘘の善悪に対する考え方
- 嘘を使う場面の是非
にあります。
ここにもまた、制限的なビリーフが関与しています。
子供の頃というのは、物事の善悪が曖昧ですから、些細な嘘を言うことはあります。しかしもしちょっとしたおふざけの嘘のつもりでも、親に「なんですんな嘘を言うのか」と厳しく怒られた経験があるとそれが制限的なビリーフとなることさえあります。
特に、親の世代には“嘘つきは泥棒の始まり”という考え方が根深く残り、過剰なまでに“嘘をいう”ことを悪と考えている場合さえあります。
子供が言う嘘の背景に何があるのか、そのことには意識が向かないのです。
- “嘘をつくことが悪である”というビリーフがあることで、それを正義の盾としていまう。
- 勘違いしていた友人が、後から軽い気持ちで謝罪しても、“なんて嘘つきな奴だ、最低だ”と糾弾したり
- その場でうまく対処するために嘘を言ってしまう自分を、後から責めたり
- 緊張感のあるプレゼンを前に、誰かをモデルにして真似ることでメンタル設定をすることさえ、嘘つきはダメだとして失敗してしまったり
ということさえあります。
マザーテレサの言葉は、思考が元となっていますが、人がなんらかの思考を持つのには、幼少期からどのような体験や社会的な通念に接していたかによって、積み重ねそして生まれ持った気質が関係しています。
嘘をつく嫌な自分をどうしたらいいか?
その場任せで嘘をついて、後からそんな自分を後悔する
その嘘をつく時のあなたは、どんな感情を持っていますか?
楽天的、その場を和ませよう、人を喜ばせよう、その人に合わせてあげよう
という気持ちがどこかにないでしょうか?
そう、
あなたが嘘をついてしまうときの心理状態は、楽だからです。
まるで
なにか小腹が空いて、ポテトチップスやクッキーを「美味しい〜」と感じながら一袋ドカ食いしてしまい、後からしまった!と後悔するのと同じです。
ドカ食いは、その時はおいしくて楽しくて、気分がいい。
- だって、昼も食べずに仕事を頑張ったし
- だって、色々と動いて疲れているし
- だって、全部食べるわけじゃないし
と、心のどこかで肯定しながら食べている。
けれど、後から考えるとカロリーは高くて肥満傾向な自分を思い返す。
はっ、と気がつくと、少しのつもりが一袋一気ぐいしてしまった。
するとどんどん自己卑下に陥ってくる。
そしてその自己卑下する自分を忘れるかのように明るく振る舞い、「もう〜一気ぐいしちゃったわ」と悩みを口にするのです。
「ポテトチップスとかクッキーをドカ食いしちゃって困る〜〜〜」と悩んでいる人の傾向として楽観的なところがあります。つまり本当のところは、悩んでいなと感じる一面がありますが、その悩みを実感すること、自己卑下する自分を認識したくないのです。
本当にそのことを悩んでいたら、実はそうしたダメな一面、自己卑下してしまう行動をする自分は嫌だとして強く認識することなしには、一気喰いを止めることはできません。それは、嘘をついてしまう自分を変える時にも同じです。
息を吸うように嘘をいい、周りを翻弄し死人まで出した“あせび姫”は若宮殿下に悪事を追及されても最後までそれが、悪いことだとは認識することはできませんでした。
一番の問題は、嘘をつく自分が嫌だと認識していることです。
「自分が嫌いだ」ということは、自分に対する否定でもあります。
そして、嘘をつく自分を嫌いだという自己否定や、嘘をついている自分に対して持っているセルフイメージは、あなたの人生の中での成功を阻みます。
人は、自分自身に対してなんらかの認識を持っています。「自分はこんな人間だ」という自分に対する自己像です
自己像・セルフイメージは、過去の体験の中での価値観、信じていることを通して実現したことを、そのまま自分のイメージとして定着させたもので、そのセルフイメージのとおりに、ものごとの決定や選択をし、振る舞うようになります。
しかし、ほとんどの人は、自分の嫌な部分、マイナス部分を何かしら持っています。クリアーで誰の目から見ても理想的だという人はいません。しかし、それが本当に嫌だと実感した時、「そんな自分は嫌だ」とつよく実感したときにこそ「そんな自分をどうにかしたい」と自分を変えるスイッチを入れるのです。
その時人は、それまでの自分を変える行動をとり始めます。
自分にとっての理想の自分を表現し始めます。
成功とは、自分が意識的に望んでいること、実現したいことがあって、それはあなたの自己表現です。
どんなにさまざまなスキルや、能力を持ち、素晴らしい体験をしていたとしても、自分が嫌い、自分に対してのネガティヴなセルフイメージは、その通りの表現をする、つまり自分をますます嫌いになるように、ものごとの決定や選択をし振る舞うからです。
もちろん“あせび姫”のように、自分が嘘を吐き、周りの人を翻弄したことに対して、認識しないのは周りが困りますが、本人は困っていないのです。
そして、
その嘘の奥にある、さまざまな理由を認識することです。
- 人によく思われよう
- 人より優位に立とう
- 本音を言っても誰も受け入れてくれない
- 本音を言えば侮られるから
など、
嘘を言ってしまう理由はさまざまですが、
そもそもそれも、人に対して期待しすぎなのかもしれません。
そもそも、多くの人によく思われようと思いすぎなのかもしれません。
人は、あなたと離れた瞬間にあなたのことにあなたに注意を向けてはいません。その場任せで嘘をついてしまうほど、その人はあなたにとって大切な人ではないかもしれません。
そうした視点で、その人との関係を見直して、時には距離を置くことです。
私自身は、自分が真面目に言っていることに対して、軽くあしらわれることが嫌です。軽口で返されるような人とはSNSでもリアルでも「ダメだこれは」という人とは距離を置くことにしています。
そして、誰もかれもに好かれようとは思ってもいません。
(自分でさえ嫌いな人がいるのに、他の誰かが自分を嫌いであっても、それはその人の自由だと思うようになりました)
(私自身昔は、職場でも家でも、周りがスムーズに回るように、気を使い気を働かせていたところがあります。そうした過剰な気遣いは、今は手放しています。
その方が、人の心理と接するコーチングでは、フラットにその人を感じ取ることができるからです)